一九六九年一月

 1969年1月18日、午前5時45分、本郷東京大学安田講堂の「時計台放送」は、こう伝えた。「こちらは時計台防衛司令部。ただいま機動隊は全部出動しました。すべての学友諸君は戦闘配置についてください。われわれの闘いは歴史的、人民的闘いである」と。
 そして、翌19日の午前6時45分。安田講堂への一斉放水が始まった。昨夜から構内に駐留していた機動隊の数は2,300人。この朝、さらに5,300人が投入され、合計約8,000名にのぼる機動隊による実力行使が開始された。
 まず、北側の窓が壊され、約300 人の隊員が侵入。1階から2階に通じるバリケードを破壊。午前10時、爆音とともに大型ジェットヘリ「おおとり」が屋上近くで旋回、催涙ガス弾をつぎつぎに投下。放水とガス弾に煙る中、講堂正面に警備車が突入。学生側は投石と火炎ビンでこれに応酬。一進一退。午後12時10分、機動隊は講堂正面の2階右手に到着。かなりの乱闘が展開。しばらくのち、手を上げた学生、約20名が最初の投降。
 そして、午後5時45分、機動隊の姿が最後の砦であった屋上にまで達したとき、電源を切られ、すでに死んでいた「時計台放送局」は、ハンディ・マイクによってつぎの言葉を告げた。
 「こちらは時計台放送局です。時計台放送は再び真に再開されるまで休みます」と。
 なお、これは余談だが、翌1月20日、時の坂田文部大臣は69年の東京大学、入学試験中止を決定、発表した。



NEXT [ESB]